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DATE: 2011/06/04(土)   CATEGORY: ニュース
ポストパフォーマンス・トーク
追加イベントととして、5月21日昼には、サンミュージックの竹田光一さんのトークショウをやっていただきました。


当日に限らず、竹田さんの生徒さんを中心に、お若いお客様(芸能関係者)方がたくさん来場いただきました。

それがどれほど大きな効果があったことか、感謝して余りあります。

いつか、その若いみなさんと、舞台演劇の作品を作ってみたいとも思いました。


トークショウは竹田さんのみごとな仕切りで、楽しく有意義な時間を過ごさせていただきました。

山崎も主宰の谷氏とともに少しお邪魔しました。

途中、とても嬉しいことに、とても密度の高いご質問を、客席から頂きました。

ちゃんとお答えできたかどうかは疑問ですが、相当な見識のある皆さんにご覧頂いていたのだと思いました。


2011-06-06-1007-35.jpg


この中で、「ブラックについて」問われた時の山崎の問答をメモ代わりに。

「ブラック・ユーモアというのは、道徳的にタブーとされることをネタにして揶揄するものとして、今回のギィ・フォワシィの作品はユーモアではないので、ただブラック。でも、TVやメディア、または教育現場や家庭でも、タブーには触れないようにする風潮があるなかで、劇場と言うのはタブーを扱えるところに価値がある。なぜなら、タブーの中に、人間の本音はあるものだし、そこにフタをして、棚上げして議論しても始まらない。それに、タブーから避けることばかりをしていては、現実社会に即応できない。やっていい事、言っていい事と悪いことの区別が、本当につかなくなってしまっている。」


竹田さんの締めは、天才バカボン。「これでいいのだ」と。

フォワシィを別役実さんにたとえた人は多くいましたが、赤塚不二夫に接点を見出した人は初めてです。

そういえば、共通するものが多いにある気がしました。

2011-06-06-1011-08.jpg

5/21 竹田光一氏トークショウ『私の感じるギィ・フォワシィ」

(竹田光一氏(左) 山崎哲史、谷正雄)





夜には、山崎吉朗先生をお招きしての講演会でした。

日本におけるフランス文学者。フォワシィを翻訳されてきた先生型のお話に始まり、「ワイン通である」というお話、さらに演劇教育にかかわっていらっしゃるというお話から始まりました。




ここにも途中から急きょ山崎はお邪魔させていただきました。

山崎が求められたのは、当日のフォワシィ作品についての見解だったのですけれども、ワインのお話はもちろん、演劇教育のお話をされたので、あまりにも接点が多くて驚きました。黙っていられなくなってしまいました。



「演劇的手法による教員研修」なんて、もろに隣でついこの前まで僕がいた大学院で、研究されていたことです。

さらには、現在その道の博士課程に進んでいる演出助手の花家ちゃんにとっては、何たることや。

終了後に紹介させていただきました。




今回の『誘拐・・・』という作品は、演劇教育とワークショップ作りを学んだ経験が、創作過程に行かされた気がします。

従来、演劇の演出は、最後の着地点を定めて、その方向を決めて、そこに向かって創作してしていくための仕事で、一方ワークショップ・ファシリテーターとしての仕事は、最初の組み合わせだけをセットして、あとはどういう方向に向かうか、結果として何が出来上がるか、一緒に見極めながら試行させるものだと考えています。



その意味で誘拐は、ラストのラストをあらかじめ定めずに、創作過程に委ねてみました。

しかしこれによって、とてもクリエイティブな稽古場になっていたように思います。




山崎先生が稽古場にいらしていただいた時、確かその『誘拐・・・』の稽古中でしたが、そのご感想やら、当日の上演についてのコメントを、この時交換させていただきました。



2011-06-06-1010-05.jpg

5/21 山崎吉朗先生(左) 講演会 山崎哲史と『W山崎』








*この時、会場から出た質問について、とっさに山崎が回答した内容をまたまたメモ代わりに。

ご質問「演劇における非日常性について」(みたいな)

「“非日常”というと、“日常”と二分化して、コインの表と裏のような言葉に見えるが、例えば英語でいえば、日常=ordinalry に対して、extra ordinaryなわけで、超・日常なのではないか。つまり日常をその方向のまま拡張したところに非日常があって、演劇はそこを扱って表現しているのではないか。なので、表現手段として歌や踊りの能力が高くても、日常をしっかりと生きて、社会と共有できていないことには、演劇のアーティスト(俳優や演出家など)は、つtもならないのではないか。」

もっともらしくて子恐縮だが、我ながら、とっさに良くおもいついたもんだ。

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